親が子で、子が親。
んんん?
親が子で、子が親。
ななななんだろか。
先日、アダルトチルドレンを言われた、信田さよ子さんの本を読んだのね。
そう。
我々の常識を覆すものかもね。
つねづね思ってきたのは、づううっと子どもって育つ上で、抑圧されてきたきらいが有って、それが大人になってからどうも、自分の光を見出せない人が多いのね。
で、自分の光を出したら出したで、それはいかあああん。なああんていわれたり、変な目でみられたり。
そんなんで、どんどん、規制と言うか、枠組みが出来ちゃうのよね。
自分の中で。
じゅああどうしたらそんなに枠組みもできちゃったのかなって、抑圧ってどうして?って思っていたら、
そのさよ子先生曰く、親御さんが、特に母親なのかな。
そのお母さんが、子どもが生まれるまで、ご主人やら、そのまた親やら、はたまたお姑さんやお舅さんに、いいだけ規制をされて生きてくると、どうも、
子どもを生んだとたん、自分の思う通りになってくれる人が出来たということで、自分の子に言いだけ自分の規制をぶつけちゃうらしい。
つまり、子どもと思うものが、自分の言うとおりにしてくれる、親のように甘えるらしい。
そう。
今までの自分の溜まってきたはけ口を、子どもに言いだけするそうでして。
んんじゃ、その子はどうするかっていうと、その子は
今この親に反抗して、親の愚痴を聞きたくないとは言えないのね。
だって、そんな事言っちゃうと、お母さんは悲しむし、もしかして、ご飯食べさせてくれなくなるかも知れないのだものね。
生きていくうえでは、母さんの顔色伺って、父さんとの仲を良くして貰いたいって、子どもながらに染み付いちゃったんだろうね。
だから大人になってから、もう親の愚痴など聞けないよ。
そうすると、親は『誰の御蔭で、ここまで大きくなれたの。あなたを育てるために、こんなに苦労したのは、わたしよ。』てな事になるらしい。
ふむふむ。
どこにでもありそうな話じゃ。
って、me.tooだもんなああ。牢
その親にとっては、子どもが親なのね。
何でも聞いてくれる、いい親。
特に、1人の子どもはつらいっすね。
ダイレクトだもんなああ。
だから、こんな中で、そだっつあうと、自分が何で、
どんな人間か分からなくなっちゃうよね。
それだもの、自分を褒めて褒めて、励まして、それで
いいって、言わない限り、生きていけないのかもね。
子どもじゃなかったんだもん。
子どもになりたくて、甘えたくていたのは、こっちなのに、先に親に甘えられちゃあね。
よくやってきたと思うよ。
ほんと。
えらい、えらい。
って、だれも言ってくれないので、自分で言うか。
私は、優香。
廉
そうね。
ただ、いつかはその子どもの体験をしないと、親には
なれないのでしょうかね。
その、親だって、されたくて、抑圧されてきたわけでもなく、きっとそうしないと、親もまた生きて来れなかったのかな。
エネルギーが無かったのかもね。
自分で立って、人生歩くことが。
改めて、確信したね。
子が親をしてしまった人が、まず、子どもで良い。という体験をしなくては行けないってことが。
つまり、人を受け入れるには、自分を受け入れる事に比例するって言うよね。
だから、やっぱりまずは、子どもの時に受容されなかったことを自分で、受け入れなくっちゃ。
そして、その自分を受け入れる体験は、まず、他者からの受容が必要だと言う事。というわけだ。
これは個人同士でもいいし、また、ワークショップ的なグループでも必要なわけだ。
信田先生のところも両方されているようだものね。
なあるほろか。
さあさあ。私の出来る事が見えてきたカナ。
・・・・しかし、まずは、講義の整理をしてから
でないと、いかんとよ。
どうしてもそこにたどり着く。
まあ、これでも少しは整頓されてきてるのでうれしい
限りじゃ。のほほほ。
だけども、新たなものを生み出すのは、ほんとエネルギーと時間がかかる事です。
ただ、夢に向かったなら怖いもの知らずね。
・・・・あたしゃ、なに事においても怖いものしらず
だがね。・・・・
へ、あんたが怖いってかい。
自分を知るというのは、
鏡を見れと言う事ね。蓮
今週末は、パーマ屋さんに行くから
いいもんだ。漣
まらまら、受容がたりんか。