変化球

先日エンジェルワークをしている仲間が寄ってくれたのね。
で、開口一番「もう先生、ニッチもサッチもいかない。八方塞がり。」
「どうしたの?何があったの?」
よくよく話を聴くと、まず彼女のお母様が数ヶ月前に倒れられて(脳梗塞)ずいぶんとよくなっていて、つい退院するというところに来て、また数日前にもう一度梗塞を起こしたらしいのね。
病院だったからまだ、すぐ処置できたらしんだけど、
また一からのやり直しだって。
そう、彼女の一からというのは、お母様との関係。
毎日行かないとお母さんがふくれてしまって、どうしても行かなくては行けないと。
この間なんかは、隣の病室のおばあちゃんとちょっと話をしただけなのに、「あんたは、私の面倒を見に来たのだから、隣の人と話すこともないし、私の話だけを聴いていればいいのよ。」とまあ、子供以上のわがままをされていて。
病気がなせる業ともいえますが、それをしっかりと受けてしまっている彼女にも辛さがひしひしと。
そうこうしているうちに、以前から子供さんとの関係も同じ感じに。
そのお母さんに黙ってもくもくとついてきた彼女は、今度は息子さんにその愚痴をはらし、その息子さんは逆にお母さんの話を一切聴きたくないものだから、
連絡を取らず。
そう、目の前の自分のマンションにすまわせているのだけれどもね。
悲しいはねええ。
彼女は「なぜに息子はこちらを向いてくれないのでしょうか。一度私の言った言葉が、本人は気になっていると、言ってたんだけどお。」
「なんて言葉?」
「あんたって、ご飯のときしか来ないのね。」
「・・・・。」
「なるほど。で、それから?」
「それっきり、1ヶ月近くうんともすんとも連絡がなくて・・・。そんなもので、傷つくなんて、男として小さいんじゃないかって・・・。」
「そっかあ、そう思うのね。」
「だから、わたし、母の所に行けば、はいはい、ってなんでも言うこと聴いて、ずっと我慢してきて、でも、息子はたったそれだけで、こっちになんかぜんぜん無視で、楽しく生活しているようで。」
「楽しく生活しているようで・・・・。」
「そう、なんか自分はぜんぜん人生楽しめていないのに、どうして彼だけはそんな事ができるんだろうかって・・・。」
「うんうん。とするとつまり、息子さんにもあなたがお母さんにしてきたように、してもらいたい?ってことかなあ。」
「んんん。そうなのかなあ。」
この親子2代の会話を聞いてお分かりのように、
彼女もまた共依存のまただ中にいらっしゃるようです。
彼女は、親子関係の勉強をしたのに、なんでこうなるのかと嘆くので、じゃあ、勉強したことを復習してみようかって話をしてみました。
どうしてうまく親子の関係がいかないかというところから、どうしたら、行けるのかまで。
その勉強とは、人は必ず1次感情と2次感情があると。
たとえば、子供がある日いじめられて帰ってきてものすごい勢いで、バッタんとドアをあけて家に帰ってきました。
するとお母さんは、「そんなにドアをきつくあけたり閉めたりしたらこわれちゃうでしょ。よしなさい。」
と、しかりました。
でも、子供の感情は実はいじめられて腹が立っているのが本当の感情です。
それが1次感情。
そして、ドアの開け閉めでとった行動が2次感情。
そのドアの開け閉めは、ただ腹立ちを表現したに
過ぎないのです。
では、彼女の場合を見てみたら、
お母さんはお母さんで、隣の人としゃべるなといったのは実はまた病気になってしまった悔しさや、寂しさ、もしくは、途方もない恐怖があったのかも知れません。
その1次感情ではなく2次感情で来たので、彼女はそれに振られてしまったのですね。
また、息子さんも同じです。
ご飯の時しか来ない、といわれても、実は彼にとって
一番おばあちゃんとの関係に苦労しているお母さんのことを気にして、顔色をみたり、健康を見たりするにはご飯の時来るのが一番かとも思っているのかも知れません。
さりげないやさしさ、気遣い、言葉には出せなくとも。
その表現がそれしか出来なかったのかも知れないのです。
特に男の子は、言葉に出さないほうが多いようですね。
その話をすると、彼女は「先生、私何も勉強がみについていなかったんだね。
やっぱり依存の癖、強いよねええ。」
「そうねええ、強いかもしれないけど、何も身についていなかったとは、私は思わないよ。
だって、この話をしてもすぐ自分で、理解し、自分のやるべき事が見えて来ているんだから。
ただ、直球しか投げられなくて、お母さん、息子さんとのやり取りも、本当は変化球が必要だったのかも知れないよね。」
「変化球?」
「そう。その2次感情のうしろにある1次感情に届く変化球の言葉づかいね。」
「そうね、でもなげれるかなあ。」
「大丈夫よ、だからこそ、練習があるんじゃないのかな?それに、あなたの場合、すでに、ボールのつかみ方は知っていると思うよ。」
「そうだよね。投げたことない変化球だもの、もっともっと練習すればいいんだよね。」
「そうそう。だからお母さんがいるんじゃないかなあ。」
「そっかあ。うん、なんか元気出てきた。また明日から練習してみるね。今日は久々にゆっくり寝れそうだわ。ありがとう。先生。」
こうして彼女は元気よく帰っていきました。
どうしても八方塞がりのときは自分がぐるぐる巻きに
されているその中心となっていることに気づかず、
苦しくなってしまうのです。
そういうときは一度深呼吸をして、その紐を一本ずつ解く作業が必要かも知れません。
何をするのでもなく、ただゆっくりと。
そうしているうち、だんだんと自分が何をしたかったのか?何をするために勉強をしているのか。が見えてくる様です。
ただ、ひとつ順番を間違えてはいけないのが、
自分の抑えていた感情に気づき、認めていく
作業が一番最初かも知れません。
それをせずして、練習といっても、やはりまた
自分を見失ってしまう。
なんのためにこんな練習をしているのかと・・・。
だからこそ、自分自身を見る作業があるのですね。
だれもが思うことは、どうしたって、親からの愛がほしいのは当然です。
その親ももちろん。
ただ、今、その親が子供に愛を求めている状況が多いみたいですね。
だから、アダルトチルドレンが沢山いる。
私はこのアダルトチルドレンであっても
いいと思うのです。
ただ、それに気づいてあげて、実はこんな状況で育った自分をも愛し、許していければ、おのずとアダルトチルドレンの親をも受けいれるのではないかと。
自分で、自分の1次感情を受け入れる。
それからかも知れません。
親を愛したいでも、愛せない自分をも・・・。
必ず、彼女の変化球が投げれる日が来ますように、
お祈りいたします。