空(くう)
こころ・たましい
2007.11.15

 あらあら、今日の空(そら)は真っ黒ですね。
とうとう札幌にも初雪が・・・。
本州の人からみると、初雪、なあんて聞くと、なんか淡いような、切ないような。
そんな感じを受けるのかなあ。
でも、北海道の人は初雪っていったら、ええええ、
またあの除雪の時期が始まるのう~、やだなあ~
寒いなあ~しか想像できなかったりして。
そう、初雪などの言葉一つで、人それぞれ連想するのは全然違うよね。
それでいいんだと思うね。
最近の本で、般若心経の本を買ったのですね。
それに、その空、いえ、くうと読むのが書いてあって。
むかしからその空(くう)に随分と自分は引っかかっていたのですね。
どういう意味なの?って。
そう、その般若心経を解り安く書いてあったのをみると、その中の
色不異空・空不異色、色即是空・空即是色とまあ、
かいてあって、その意味は、形あるものは空であり、
空が形あるものとなっている。
と言う意味だそうで。
・・・。
なんのこちゃ・・・って思うのは私だけ?
それで、本を読み進めていくと、秋になって、柿がなり、それが赤く熟したころに、カラスにとられたちゃったら、お腹を満たす事はできないので、形あるものは空である。と実感すると。
では、柿の実はもうなくなっちゃったのって言うとそうでもないわけで。年が変われば実をつける。つまり、空なるものが形あるものを構成すると。
唐の詩人の劉廷芝(りゅうていし)さんは、『年々歳々花相似たり、歳々年々人々同じからず。』とよまれており、つまり花は毎年同じように咲くが、人は年とともに変化する。と言うのだそうです。
ふううん。
それで、人は自分が何よりも大切に執着しますが、その自己と言う存在も、実は一瞬たりとも同じではなく変化していて、今日の自分は昨日の自分ではないと。
そして、老いて死んで消滅して行く。しかし、そのような自己でも、今ここに確かに存在している。
はあ。
要は自己の存在にも、自己が存在しえないことを超越して生きる事。それが空の教えなんだそうです。
・・・・。
もっと訳がわからなくなちまったです。
この文面を読んで理解できる方も沢山おられると思うのですが、私にはまだまだ。
でも、最後に、仕事を一生懸命に頑張って、一段落つき、大きく伸びをして家路を急ぎ、帰り着くとシャワーをあびてビールを飲み、食事を済ませて、グーッと眠る。この生活に何の迷いも無く、無心の働きと無心の休みがあるだけ、こんな生き様が、“自己そのまま空”といえましょう。
おほほほ。
それなら今でもしているわ。
ってな感じで、ここで私もすっとはしたのですが、意外とそんな迷いも無く、なああんて事ないかもとも考えてしまいました。
だからこそ、幾千年もの間人々にかたりつがれてきたわけでは無いのですよね。
私はこの宗教でとかあまりないので、誰かにキチンと
般若心経を教わった事がありませんが、このお経には
我々が心輝くような教えがあると書いてました。
ふむふむ。
それで、買ったんですけど、まあ、一回ぐらい読んだからと言って、そっかあなどと悟れる事もなく、
それが順調と言えば順調でして。
でも、その空(くう)という意味がすこーしでも感じ取れたような。
そうすると、あるがままを受けるともつながるわけで。
そう、今そのくう、いえ空(そら)から雪がわんさとふりそそぎ始め、これを熱い夏のための恵の水と思えば寒さも何のその。
つまり、我々人間に出きる事など実は何一つ無いような・・・。
どうも全ては自然界の神様なのか、仏様なのかわからないのですが、全ての物に支えられているのかなあって実感してきますわね。
ありがたいですわ。
この雪も春になれば融けて今ここにあるものがなくなるわけで、でも来年またこの季節ちゃんと雪が空から
降って来る。
その時の自分と、今の自分には変化があり、違うわけで。
・・・まあ年齢は1つとるのは事実だわね・・・><
やっぱ・・・難しいか。
と言いつつ、この空(くう)は日常のありのまま、生活そのままらしく、日常の心がけさえしっかりしていれば執われを離れ、真実を見据えていく事ができるのだそうです。
そこが難しいのよね。きっとさ。
全ては空(くう)か。
・・・空・空・ぐうう・・・。
あいやあ、それは私のお腹のぐうう。
いやはや、無い頭で考えるとやはりお腹も減ってくるわけです。
つまりはこれが本当の空(くう)腹って事ですよね。
にゃははは。
なかなか難しいようですが、なるべく空のように生きたいですね。
・・・その前に、腹ごしらえをしてからね。
のほほほほ。秊
 

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